Our Stories
昭和50年(1975年)~昭和59年(1984年)
鈴木成裕活動歴Ⅱ-3(昭和50年~59)
(Ⅱ)現研のあゆみ
昭和50年(1975年)~昭和59年(1984年)
―事業の深化・充実と国際化加速への対応―
(Ⅱ-3)新成長への課題克服:あるべき企業確立への提言
(8)昭和50年代下期の展望

昭和50年代は「低成長期」、「減量経営」という言葉が、企業の合言葉となっていた観のあった時代であった、という記述が、「現研活動史」の中にあります。
長引く不況、そしてロッキード事件で大きな打撃を蒙ったにも拘らず、自民党は田中内閣総辞職(1974年12月)後も、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、伊東正義(総理大臣 臨時代理)と単独政権を維持して、80年(昭和55年)7月、鈴木善幸内閣の誕生を迎えました。
強い結束力を持つ派閥の下で、いわゆる三角大福中による党内抗争は熾烈を極めておりましたが、野党には自民党の一党支配に打撃を加えるだけの力が全く不足している状況でした。
しかし、苦境を乗り切り、大きな努力を傾注した企業の中には、新たな成長に向けて力強い歩みを踏み出したところも現れてきました。
この昭和55年以降の日本及び日本を取り巻く諸状況を大島上級主研は、次のように展望しております。
1.レーガノミックスからプラザ合意へ



東西分断下の世界の状況は、特に、1980年を節目として、アメリカはレーガン、ソ連はブレジネフを戴いて、相互に強いアメリカ、強いソ連を巡って軍備拡張を競っていた。宇宙開発競争もその一つである。だが、この消耗戦によって双方の国力はギリギリのところまで疲弊する。結果、時代は東西冷戦の終結に向かうことになる。
1980年からのアメリカは、いわゆるレーガノミックスの時代で、減税による投資促進政策と金利引き上げによる貯蓄促進策がとられ、この政策によるアメリカの景気浮揚とドル高の恩恵を受けて、輸出の回復、景気拡大へと息を吹き返していったのが日本とドイツである。対して、肝心のアメリカは2000億ドルの財政赤字と、2000億ドルの経常収支の赤字という双子の赤字に陥って、政権の危機を迎えることになった。
危機感を持ったアメリカが次に打った手が「対米輸出阻止」政策、すなわちドル安政策と対外圧力である。
これが1985年、ニューヨークのホテルで行われた先進5カ国蔵相による「プラザ合意」であり、このとき、批判のかたちで出てきたのが日本人の「働き過ぎ論」で、その解消策として日本側のとった措置が「時短の推進」、「リゾート法」などの施行であった。
そして、1986年の「前川レポート」の提言によって、以降の日本では、バブルへと繋がっていく内需の拡大が進行する。
2.エレクトロニクス技術-新たな国際競争力の獲得

ドルショック、オイルショックの後、苦闘の中で産業構造のシフトを敢行した結果、新しい家電や自動車に搭載された日本の省エネ技術は、それまで第2位、第3位にあった日本製品に対する評価を瞬く間に覆して、その序列を第1位に引き上げる大きな転機となった。中でも、日本車に搭載された電子燃料噴射装置を支える電子制御技術は、新技術を次々と搭載する新車の出現という形で、技術革新を大きく促進した。そして、これらの新しい日本車は、それまでのメカ重視の世界中の自動車ユーザーの価値観に対して大きな衝撃を与えることになった。
この時代を契機に、それまで成熟産業といわれていた自動車の世界がエレクトロニクス化へとカジを切って、一挙に成長産業へと衣替えをするのだが、その先陣を切った日本企業は、圧倒的な競争力を握ることとなった。
オイルショックという困難の中、そして世界でもっとも大きな打撃を被った日本が、全力を挙げて苦境を克服した時、日本は新たな競争力を獲得したのである。
3.小集団活動-改善提案活動

p165〜166 Ⅳ小集団活動の取り組み方より「提案の仕方」
(1977年9月刊 日本経営者団体連盟広報部発行)
消費財、個人生活財の分野が拡大したこの時期のタイミングに合わせて、産業界において、大きな貢献を果たしたのが提案活動である。
重化学工業が主体の時代には、専門的な技術者の力が大きな影響力を持つ。しかし、家庭や個人生活に関わる財に関する産業の拡大期には、そこで働く人たちが、それぞれ自分たちがつくっている製品に対していろいろな工夫や着眼を持つようになり、製品開発への参画や、改善への意見提示のチャンスが多く出現する。それを企業も歓迎し、それらの意見を積極的に取り上げて、製品の品質向上や改善につなげていく。このような改善活動、提案活動が奨励され、それに関わる教育も進んでいく。
省エネ意識の浸透と並んで、昭和50年代に構築されたこの企業活動の善サイクルは、日本の国際競争力の増強の大きな力となっていった。
4.貿易摩擦を乗り越えて現地生産を決断



(写真中央1992年撮影)

現研ロンドン事務所のあるビル(1992年撮影)
回復した欧米諸国の消費と、品質技術、環境技術の水準を高めた日本製品の競争力によって、日本からの輸出は飛躍的に伸びていった。それが、やがて現地製品を駆逐し始め、現地の雇用を奪うというところまで到達すると、日本製品、日本産業への激しいバッシングが始まった。ふたたび「貿易摩擦」である。
アメリカにおける日本製品に対するダンピング訴訟もその一つである。現地製品との価格比較で日本製品が安すぎるということではない。彼らは、日本の国内価格と各種の輸出経費を乗せた価格を割り出して、それと現地の販売価格を比較して、「現地価格が低い」とする。そしてダンピング提訴するのである。これが、もし認められれば、日本企業は膨大な課徴金を課せられる。どの産業界も必死に、現地の司法と対抗したのである。
欧州においては、ローカルコンテンツ法案が動き始める。この論理は輸入規制にさらに輪をかけるもので、すなわち、たとえ現地生産をしたとしても、製品に占める部品が一定の現地調達率を満たさなければ現地販売は認めないという規制である。そして、1993年成立のEUにまで、この規制問題は引き継がれることになった。
こうした軋轢を乗り越えて、いよいよ日本企業の本格的な現地生産が開始された。
だが、この現地生産は、いざ出て行ってみるとさらに厳しい現実に突き当たる。現地の加工技術、管理システム、労働意欲等、どれをとっても問題の山積で、苦労と挫折の連続であったことは周知の通りである。
昭和50年代に日本企業が直面したこの欧米先進国での現地生産化は、その後展開されて現在に至るアジア進出とは比べものにならない日本産業の歴史的大転換といえるもので、このときに経営の下した決断は想像を絶するものであった。
なお、この日本企業の展開と軌を一にして、当現研の活動もさらに国際化へと一歩を進め、1991年にはロンドンに事務所を開設するに至った。その開設の任に当たり、初代所長を務めたのが現所長大槻裕志である。この詳細は1985年以降の本活動史で述べることになる。
5.企業の淘汰・再編と社会の変貌
不況および生産の海外移転等によって、それまで大企業を支えていた中小企業、下請企業の仕事は急激に減少した。その結果、経営が立ち行かなくなった多くの中小企業の半分は廃業に追い込まれ、半分は大手企業傘下の子会社、関連会社となっていった。
そして、日本の社会は、それまでに形成されていた「地場産業」の消滅とともに、産業と人口の大都市集中と、新たな地方中核都市の形成へと向かうことになった。その意味で、昭和50年代は、今日の地域格差の出発点となったと言ってもよい。
この当時の状況に関しては、山本上級主研にも次のような記述があります。
6.分社化の動き
「高度成長期の後に見舞われた低成長期、それでも多くの企業は新成長を目指して、さまざまな動きを試みていた。その一つの流れが分社化である。分社化とは、いうまでもなく、企業がある事業部分を本体から切り離し別会社として経営する事業・組織戦略であり、成功すれば、その効果は大きい。
だが、分社化は高度な経営戦略であり、高度の事業構想立案能力を必要とする。
したがって、事業構想立案能力を強化して分社化を行った場合、企業の中に、この立案に携わった人を事業を立ち上げる人として、そこに配置する傾向を生んだ。つまり、分社化戦略においては、多くの場合、スタッフが中心となったのであり、ブルーワーカーはカヤの外に置かれたのである。
そして、これが将来に禍根を残した。つまり、このときに生まれた現場軽視の傾向は、現場から活力を失わせ、それがのちのち組織における大きな事故・問題発生の原因となって、顕在化することになる。
7.IT化の遅れの背景-これまでの情報問題からの考察

昭和40年代においては、情報はインプット、アウトプット、基準、システム活動という概念を明らかにして、システム図を描くことによって捉えられると考えられていた。だが、例えば、社の売上目標に関して言えば、そこには大勢の人が関わり、広い地域にわたって、同時並行的に売上目標達成のための販売活動を行っている。しかし、どこでどの位の売上げがあったか、またどのくらい売れなかったか、そのフィードバック情報が来なければ、売上げ情報のインプットは出来ない。現在(2004年当時)は、どこからでもデータは即時に送ることが可能であるが、当時は携帯電話もパソコンもなかった時代である。
つまり、MISを活用しようにも、それは理論の世界のことでそこに至る周辺機器がなかったのである。MISはメインフレームだけではどうにもならず、システムを動かすサブ機器が必要であったのだが、それはまだ、どこにも存在していなかった。
情報処理は、現在こそ、部分部分が最適化され、全体が動くように仕組まれている分散処理型がグローバル・スタンダードであるが、この当時は、未だ中央集権型だったのである。

「オフィスワーク再設計研究会」報告書(右)
発生論的に言えば、情報処理は“PERT/LP/シミュレーション”と言われるように、第1に、例えば月へのロケットの初速はどの位であるかというように微分方程式を解くために、第2に、PERT計算-例えば建築現場において、クリティカルパスのもっとも大事な工程をどの位の速さでやれば許される工期で完了するか等の計算-のために、第3に、似たような現象の解明において、アルゴリズムが判っていない問題に対して数値モデルを使ってシミュレーションをするために、適用されることを目的として浸透してきた。
しかし、一般的に言えば、企業ではこれらの手法によって解く問題は少ない。
その意味で、企業構造はコンピュータに向いたステップを追っていけば答えが出せる構造、すなわちグッド・ストラクチュアではなく、イル構造(ill structure)である。これを転換する必要があったのだが、この能力をもった人材が、当時は余りにも少な過ぎた。MISも、あれだけ多くの企業が導入・活用に躍起になったにも拘らず、十分な成果を挙げることができなかった原因は、サブ機器の問題と合わせて、この人材不足の問題にもあったと言えよう。
現在は、携帯電話など、個人用通信機器の進歩により、情報の分散処理の可能性はかなり高まった。だが今度は、それによってどういう問題を解いたらよいか、それに取組む企業のリーダーが欠如しているという問題が出てきた。
この原因は、どこにあるか。マンネリ思考である。現在およびこれからの企業には、マンネリ思考の打破と合わせて思考の基礎能力を上げ、企業の到達すべき、また日本が到達すべき「素晴らしい状態」を構想し、その状態を実現するために、タイムリーにイベントを配置する具体化思考が望まれる。
8.日中平和友好条約の発効
*1972年9月29日 田中角栄首相は、中国の周恩来国務院総理の招きにより訪中、北京で日本国政府および中華人民共和国政府は共同声明を発表
*1978年8月12日 日本国政府(内閣総理大臣福田赳夫)と中華人民共和国政府は、両国間の平和友好条約の締結を決定し、それぞれの全権委員を任命。各全権委員は、この条約に署名調印した。
日本国全権委員 日本国 外務大臣 園田 直
中華人民共和国全権委員 中華人民共和国 外交部長 黄 華
*1978年10月22~29日 中華人民共和国の鄧小平国務院第一副総理は、日中平和友好条約批准書交換式に出席のため来日。10月23日、福田赳夫首相、鄧小平氏出席の交換式にて批准書を交換。日中平和友好条約は発効した。本交換式のあと、鄧小平氏は、昭和天皇に会見。
なお、当時の中国共産党主席・国務院総理は、華国鋒氏。
(以上、外務省HPを参照)

*この訪日の直後の1978年12月、鄧小平氏は主導権を確立。
1979年、深せん、珠海等、経済特区を設置し、外資、技術、経営ノウハウ等を導入し、工業体制改革に着手。また一人っ子政策も実施された。
1980年には、IMFに加盟。中央指導経済に市場原理の導入を計る構想を推進。
日中平和友好条約の発効は、世代によって、あるいは政治姿勢によって、日本社会の中でも受け止め方はいろいろであったと思いますが、兎に角、大きな関心を引く出来事でした。新聞は、連日、鄧小平氏が訪問の先々で受ける歓迎の様子を伝えておりました。
ここに、鄧小平第一副総理の来日と、その後の日中関係に関する大島上級主研のメモがあります。
当時の日本の先行企業の動向
*松下電器産業(株)(現、パナソニック)・・・HPより引用
・昭和53年(1978年)
当時、副首相だった鄧小平さん、来日
大阪、茨木市のテレビ工場を訪問。松下幸之助さん(当時、相談役)が応対。
鄧小平さん「中国の近代化を手伝って頂けませんか」
幸之助さん「出来る限りのおてつだいをします」
・昭和54年(1979年)
北京駐在員事務所を開設
・昭和62年(1987年)
ブラウン管製造の合弁会社を北京に設立―日本企業では、戦後初の中国への工場進出
・平成20年(2008年)
胡錦濤国家主席(当時)が来日の折、大阪、門真市の本社を訪問。
幸之助さんに対し、感謝の言葉。
「中国の発展に尽くしていただき、ありがとうございました」
中国への展開
ここには、昭和50年代の動向だけではなく、その後、ほぼ今日(2014年)までの中国における日本企業の動向がメモされております。
*中国が求めたもの
・初期:雇用の拡大・・・・・テレビ等、労働集約、産業の誘致
文明開化、啓蒙・・・近代産業のモデル、豊かさのシンボル
中期:技術の導入・・・・・品質管理、小集団活動、インセンティブ制度
近代設備・・・・・新規の金型、精密加工機
先端技術・・・・・半導体、通信
資本/資金・・・・・合併から融資への資本解禁、工業団地開発
近年・流通・産業システム・・・・・コンビニ、宅配、フランチャイズ
冷凍・冷蔵・・・・・コールド・チェーン
ファイナンス・・・・・投資資金、クレジット決済
日本の側の変化
・製造拠点から市場への転換
・反日への対応、撤退の困難さ、政治リスクの分散
・中国のコストは魅力的ではなくなった
・産業拠点の内陸化は有利ではない
・タイ、インドネシア、インド、ミャンマー・・等の出現
等。
9.これからの中国の変化-日本のモータリゼーションからの予測

20号
BIG PROJECT物語7
鈴木成裕
「未来へ挑戦する意思決定」
ーIBM360シリーズ開発の
背景ー
(1968年8月10日 トヨタ自動車販売(株)販売拡張部発行 現代文化研究所編)

山本上級主研も、90年代に度々中国を訪れ、鄧小平氏による経済特区の設置、経済への市場原理の導入、IMF加盟等、次々と打ち出された改革路線の成果を目の当たりにして、2004年の時点で次のような予測を行っております。
総じて言えば、70年代は日本の国際的な地位向上の目覚しい時代であった。そして、この日本の地位向上は、日本の経済力、すなわち日本の企業の力に全面的に負うものであった。
では、この経済力はどのような形で形成されてきたのか。そもそも、その力の発端はどこに求められるか。そう考えた時、日本の経済及び産業が最も影響を受けた現象として認識されてくるのは、モータリゼーションという新事態の出現である。
*1961年(昭和36年)、日本における個人所有の自動車の比率は12%であったが、それが3年後の64年には22%に上昇している。そして73年に、石油ショック、排ガス規制、車の安全問題等々という大きな試練があったにも拘らず、ファミリー・カーの需要は増加の一途を辿り、76年の国内における個人の自動車保有台数は1700万台、すなわち2世帯に1台という数字を達成した。
*日本におけるモータリゼーションは、次のように、さまざまな波及効果を生みつつ展開された。
われわれ日本人は、こんな立派なものを作れるようになった-働き方のチャンスも増えた-道路があればどこへでも行ける-ガソリンも道路わきのスタンドで入れられる-頑張ればわれわれも車が持てる。
*そして、次に車が買えるようになったとき、自分の立場を考えるようになる。例えば、自分は今、○○の仕事をしている。だから、この車がふさわしいと考える。あるいは経済性を考えれば燃費のいい車だろうとか、自分の仕事場の立場は車格を考慮せねばならないものであるから、そうするとこの車になる、等々を考えて選択する。こういった車に対する考え方が、その後、どれだけ多くの事業や技術や商品の開発に繋がっていったことか。
*あるいはまた、あの人はどんな車の買い方をしたか、ということにも気を配るようになる。例えば、社会の指導的な立場にいる人ほど安全性を気にするし、また若者に取り囲まれているような立場の人は、デザインとか色にも気を配る。そして、こういった消費の癖や特徴に企業が注目することが、その後、どれだけの商品の多様化や付加価値を生むことに繋がっていったか。
さらにあるいはまた、一度車を持った人は手放せなくなる。それは、車には利便性と合わせて、自分の立場や考え方を表現してくれるような魅力があるからだ。そして、こういった心理的な側面から社会や消費者を考えていく発想が、その後、どれだけサービス業全体の質の向上に貢献したことか等々。その影響は、日本の産業、社会、生活の全域にわたったと言ってよい。
*すなわち、モータリゼーションは、自動車をつくる時の生産関連、次にそこで働く人たちの暮らし、次に買換え需要、さらに中古車マーケットの成立・拡大というように、自動車生産の発展を軸に、いくつかの事業を消滅させる一方、さまざまな事業を派生させながら、日本の新しい社会を出現させ、新しい考え方を持つ社会人を出現させたといっても過言ではない。

*さて、こうしたモータリゼーションが国内で一段落すると、今度は、こうしたあり方を、どこかの国にもっていきたいということになる。国際化の始動である。
このように、戦後の日本が本格的な国際化へ踏み出した歴史は、国内のモータリゼーションの歴史と不可分のものであった。
そして、では、どこの国がよいか。あの国は大丈夫か、この国はどうだろうか。メーカーも関連企業も最適な地域を目指してしのぎを削ることになる。隠して、地球上のいくつもの国が、モータリゼーションへとシフトしていく流れは、今後とも続いていく。
*恐らく、中国は、そう遠くない将来、モータリゼーションに取組み、15〜20年後には相当の効果を上げることになるのではないか。人口大国中国は、確かに、当面は大きな労働市場であるが、やがて国内がファミリー・カーの需要で満たされる日が来ることは間違いないであろう。
(9)討議・検討を要する課題

昭和が50年代に入りました。それは、日本の敗戦後、30年が経ったということです。
この当時の日本の状況を、鈴木の「自分を超える思考」を解読する中で、山本尚志上級主任研究員は、次のように語っております。
「敗戦後の日本国家は、国家としての目標も定めず、従って明確な目標もないままに経済の復興を目指し、1955年に保守合同によって自由民主党が結成されると(これがいわゆる55年体制の始まりである)、以後、その勢力の下に重厚長大型の社会構造を築き、スケールメリットを標榜して、ひたすら所得倍増に向けてひた走ってきた。そして結党以来、20年以上にわたって自民党政権は、この重厚長大の企業中心社会が、将来にわたってどのような社会問題を発生させるか等、ソシャル・アセスメントに関して全く注意を払ってこなかったのである。だが、さまざまな問題が制度疲労の中で次第に顕在化し始めてきた。」
このような状況の中で「自分を超える思考」(第Ⅰ章 集団の選択 1.状況の中の基調 基調1 国家目標の動揺―集団行動の多様化)は、国家目標に対する次のような考察から書き下ろされております。以下に、鈴木が日本の国家目標を考察するキーワードと致しました概念を中心に、その概略を記します。
⚫︎文化
戦後の選択である富国、それに引き続く選択として、日本は文化国家たることを今後の進路としたはずであったが、その当時の文化は、敗戦によって(富国強兵の)強兵であることを捨てる代償として、その代わりの原理としての必要から選ばれた「ねばならぬ」原理であって、「であることを欲する」原理ではなかった。
文化は確かに、ある種の人びとにとっては、まぶしいほどの輝きをもっていたが、しかし、敗戦の混乱の中で生活する人びとにとっては、第二義的なものであった。文化の概念は、国民の行動を左右していく、国民の心の中にある内側の原理とはならなかったのである。・・・したがって、国家政策上でも、文化に対するつきつめた思考は見受けられなかった。
⚫︎富国
いずれにしても、結果として、文化国家の建設という意思が、“文化的である富国”という曖昧な概念になり、次に富国に絞られていき、そのことは大部分の国民の合意となった。事実、敗戦直後より通貨調整くらいまでは、生きのびることと、生活を豊かにすることとが国としても大事な要件であった。だから、強いて言えば、「富国、富民」が国家目標であったといってもよさそうである。
だが、明治政府の選択である富国・強兵は、強兵になって富国になる可能性を含んでいた。同じように、富国・富民とした場合も、民の生活を豊かにして、富国になる可能性を含んでいた。だが、選んだコースは富国になって、生活を豊かにすることであった。このロジックは、現状までのところ、国民の生活に歪みをつくる重要な一要因となった。
⚫︎平和
もう一方の戦後の願いであった平和国家の建設という行動原理はどうであろうか。
一般に言われる国家目標は三つに分けることができると考える。一つは国民目標。もう一つは国際目標、さらにもう一つはこの両者を統括する国家理念である。
そして、この国家理念は、国民目標や国際目標の変化に際して、厳しい目標選択の基準、行動統括の原理となるべきものである。だが、この理念は憲法成立の諸事情も絡んで、“平和であること”という以外は、ほとんど国民の意識に積極的なかたちでは登場してこない。例えばそれは、他国に示すものとしてあり、統括原理であるよりは、他の政策や外交折衝の手段として存在している。それは、国民目標と国際目標の選択と、それらの調整の厳しい原理、積極的な方向原理として働いているとは言い難い。
現実に、わが国は、「平和を推進している国」とみられるよりは、「平和的な国」とみられているのではないか。平和の消極的な捉え方では、いい子までにはなりえても、国際間に好ましい変化をつくり出すところにはいかない。
つまり、世界が平和であることだけが、日本のこのような存在のあり方を保障する唯一の手段であるということになる。
したがって、平和の努力に、国家のもつ人的、物的資源を最大限投入することが、そして対外政策を具体的に、統一的に平和推進に結集することが、第一級の原理のように思える。
⚫︎国家理念・国家目標・
国際目標
GNP第2位の経済大国になったにも拘らず、日本は国際貢献行動が上手な国とは言い難い。問題が起きた後の日本自身の国際行動への反省はするが、事前の国際貢献行動は適切・十分な対応とはいかないケースが結構ある。
これは、内側の国民目標と外側の国際目標が、国家理念(原理)のたな上げに近い状態のために絶えず葛藤を起こすか、内側の国民目標のため、国際目標の遂行が一部の専門家のむずかしい仕事の位置におかれ続け、問題発生後の政策的処理の領域に閉じ込められる可能性が高いということである。
だが、国民の間に、国民目標や国家目標としての国際目標のいずれに対しても、疑問が生じているのは事実である。このことは、高度成長政策の切り替えの遅れに伴うさまざまな破綻現象に根ざしているが、そのことによって、われわれは、西欧においては19世紀頃に解決したと思われる国家と個人、集団と国家との関係の問題に、初めて直面しているといってよいかも知れない。
なお、書籍「自分を超える思考」の表紙の裏帯には、将来の日本の国家目標に関して「・・・多分、いくつかの試行のもとで集約されたものが、なんというシンボル・ワードになるかは別として、1.経済性、2.社会性の高次概念としての文化、3.平和の推進の徹底、に再帰してくると思われるし、・・・」の部分が、本文中より抜粋・表示されております。
⚫︎「国家目標研究会」
この内容は、今から38年前に記されたものですが、地域紛争、領有権争い、宗教・民族間闘争、分離独立運動が頻発し、憎しみや誹謗、中傷の渦巻く世界情勢の中で、今こそ、日本人による日本の国家理念の選択・確立を念頭に、一国平和主義的発想と世界平和への積極的貢献のあり方、そしてこの両極の間に横たわるさまざまな矛盾・軋轢について、一人一人の日本人に、改めて熟慮を重ね、議論する必要を迫るものを含んでいると思います。
この問題は、今日に至ってもなお、本書から多くを学んだ現研メンバーが、それぞれ深く心に刻み、意識し続け、折々の議論の対象としているテーマであります。
確か、昭和47,8年頃、鈴木は国家目標を明確にし、社会デザインを構想し、問題把握から解決までの一貫した流れを意思型アプローチとしてまとめるべき会合、「国家目標研究会」を立ち上げようと試みたことがありました。この研究会合は、民間のシンクタンクである現研が、企業活動と不即不離の形で展開されることを前提とし、そのために企業の方々を含めて、広い分野の論客をお誘いして開催されるはずでした。
しかし、誠に残念なことですが、お誘いした皆様からご賛同を頂いたにも拘らず、多くの方々が、この時期、多忙を極めており、また鈴木がお付き合いを頂いておりますクライアントの仕事も拡大新局面に入り、鈴木自身も予想以上の繁忙を極めることになりましたため、会合日程の調整が難航し、準備会は開催されたのですが、持続した会合の実現には至りませんでした。
⚫︎国際化の加速と日本の論理

ところで、日本が国内外から「経済は一流、政治は二流」と言われ始めたのは、昭和50年前後からだったと思います。国際化が進行し、欧米先進諸国に伍して行動することを迫られている折であるにも拘らず、日本は、国家及び国民が論理的な行動の明確なデザイン・アプローチが不明のまま、国際社会に対して自立した行動をとりえないのではないか。
そんな状況が出現することを予知していたのでしょうか。現研メンバーの中には、昭和40年代の後半、鈴木所長が芥川龍之介の「ぼんやりした不安」という言葉を、時折口にしていたのを覚えている者がおります。
確かに、高度成長は達成され、国民は豊かになり、国際社会からは「日本の奇跡」と賞賛されてはおりましたが、環境汚染、狭小遠高の住宅事情等々、高度成長のひずみは、そこここに現れておりました。
そして国際関係の拡大・深化とその圧力の下で、日本は如何なる事態に直面することになるか、またそれをどのように克服していくべきか、そもそも日本は国際社会の中で、どのような立場に立ち、どのような役割を果たしていくべきなのかが、国家としても問われている時期でもありました。
それもあってのことなのでしょうか。そう言えばこの時期、鈴木は多忙を極めております中で、何とか日程をやりくりして、よく海外に出かけておりました。アメリカ、欧州、アジアの諸国の現場に立って、自分自身の目で見て、感じたい何かがあったのだと思います。
昭和51年9月、鈴木は、このような問題認識を共有する旧知の有識者の方々数名をお誘いして、「国家目標研究会」の主旨も織り込んで、2年間の有限期間の下に、「日本の論理研究会」の発足を実現いたしました。
(10)エピソード「あのとき、あの場で」

本昭和50年代の記述の前半に、現研の教育研修の代表例として、山本上級主研はスタッフ研修プライマリー・コースを挙げ、その中で、鈴木所長が研修の現場で、新規入社のメンバーに行う厳しい指導のことに触れております。
鈴木成裕所長は2012年に他界致しましたが、その追悼に当たって作成いたしました「鈴木成裕言行録」(2012年9月)に、当現研の萩野齊之主任研究員は、入社して間もない時期(1988年)、鈴木所長の研修に随伴し、折に触れ、鈴木より教示された言行を、エピソードとして次のようにまとめております。
紳士の条件:

「君も経営コンサルタントとしてやってゆこうとするならば、何に対しても自分のオリジナルな意見を持つように努力せよ。あくまでもあなた自身のオリジナルな意見でないとダメだ。」
以前観た映画の中で恋人同士が交わした会話に私の考えをうまく表現したものがあった。女性から「紳士の条件って何?」と訊かれた男性が「紳士の条件は何に対しても、自分の意見を持っていることだ」と答えたことをあげ、君も経営コンサルタントとしてやってゆこうとするならば、何に対してもオリジナルな意見を持つように努力せよ。あくまでもあなた自身のオリジナルな意見でないとダメだ。借り物の意見は決して口にするな。 (この教えは今でも守っているつもりです)
-某社の社員研修の昼食後のコーヒータイムに、雑談の中で受けた教え-
教育を深めよ:

「100知って100の力を出し切るのと、一見無駄な500と有用な100の合計600を持っていて、その中から100出すのとでは同じようで違うのだ。」
所長「”アガペ“って知っているか?」 私「たしかギリシャ哲学の四つの愛の中の第四の定義では」 所長「よく知っているね」。何の目的での質問かという私の疑問を見て取った所長は「研修とは全く関係ないが、こういうことを知っているか知らないかは、なんとなく知性に現れる。100知って100の力を出し切るのと、一見無駄な500と有用な100の合計600を持っていて、その中から外に100出すのとでは同じようで違うのだ。それが知性と品性に反映される。」 (無用の用ということか。その後、”ピカソの青の時代“をどう思うかとか、新渡戸稲造著の”武士道“をどう思うかというような、旧制高校で当時の高校生が議論したような一般教養について質問攻めに。何とか対応できたが冷や汗もの)
-社員研修が終わって散歩の時に、所長との何気ない対話-
日本文化を誇れ:
「分らなくて良いから何時も最高のものを見るように。そうすれば、いつかは本物が分かる。」
一口に日本文化と言っても、マンガ、スキヤキ、テンプラなどの庶民文化ばかりではない。代表的なのは安土桃山時代の文化だと思う。茶の湯、生け花などのソフトと、これを盛り上げた金襴の屏風、陶磁器、庭園、着物、道具類などのハードが一体となって織り成す豪華絢爛な安土桃山の時代にもっと触れるように。分らなくてよいから何時も最高のものを見るように。そうすれば、いつかは本物が分る。二流三流のものは見るな。付き合う相手も一流の人を選べ。(私の主義と一致し、現在は国立博物館のサポーターとして超一流のものを見続けています)
-日本の良さを海外に紹介するときに備えて、日本文化を深く知れという所長の教え-
主題と主語:
「主語がない話し方は日本語の特徴だが、外国人には判りにくい。英語の話し方、例えばI think・・・のように誰の意見なのか判るような話し方になれるように・」
何かについて話すとき、その主題(テーマ)をはっきりさせ、話すときの主語をはっきりさせること。主題があやふや、主語がない話し方は日本語の特徴だが、外国人にはわかりにくい。英語の話し方、例えばI think・・・のような話し方になれるように。(難しいが、日本語の講演を文章にすると上記のことを痛切に感じる)
-主語とテーマを常にはっきりさせよという教え-
思考の整理:
「横軸に 過去・現在・未来 の3つを、縦軸に 上位・中位・下位 という重要さの3つを置き、その9象限の中に、考えている主題を分解して書き入れ、すべての欄を埋めるようにする。しかし、どうしても空欄になってしまう箇所が出てくる。その欄に関して、出来るだけ多くの視点で考えて答えを出す。」
何かについて答えを出すとき、横軸に 過去・現在・未来の3つを、縦軸に 上位・中位・下位という重要さの3つを置き、9象限の中に考えている主題を分解して書きいれ、すべての欄を埋めるようにする。そうするとどうしても空欄になってしまう箇所が出てくる。その欄に関して、出来るだけ多くの視点で考えると、何とか答えが出てくる。他人の話を聞くときも、9象限に相手の言っていることを当てはめ、空欄になっている箇所について質問すれば、相手が考えていなかった部分が浮き彫りになる。これを頭の中だけで行えば、新しい知識が出来上がる。(訓練すればかなりできるようになるが、何時もそうするにはかなりの訓練が必要)
-ものの見方の基本に関しての指導。基本は“自分を超える思考”の内容に同じ-
コトバの意味の統一:
「何かについて討議するとき、重要なキーワードになるコトバについては事前に定義しておくこと。」
人々があるテーマについて討議する時、その討議に使われるコトバについて、参加している人々の間にコトバの意味に差異があることに注意せよ。特に抽象度の高いコトバ―自由・平等・権利・教育など― については、100人中100人がそれぞれ異なった定義を持っていて、討議の途中では気が付かなくても、いざ結論という段階に至って初めて自分が思っていたコトバの意味と他人が思っていたコトバの意味がかけ離れていたことに気付くことがある。何かについて討議する時、重要なキーワードになるコトバについては、事前に定義しておくこと。(国会の代表質問でも時々見かける。定義できない事象については困難を伴う)
-「コトバ」の重要性についての教え-
情報の恐ろしさ:
「情報を受け入れる時、その情報のもとになった情報源にまで気を配れ。外部で作られたホット情報は冷ましてから受け入れよ。」
情報を受け入れる時、その情報のもとになった情報源にまで気を配れ。情報源を探っている間に、さらに次の情報が発信されてくる。それが繰り返されると、情報源を探っている時間的な余裕がなくなる。直感で情報の真偽を確かめるようになるには訓練が必要だ。それには情報の発信源となっている個人・団体・組織についての真贋を確かめればよいが、それさえも操作されている場合がある。今、一番重要なのは情報だが、悪意をもって作られた情報でも瞬時に世界中に広がる。流言飛語に惑わされないためには、自身が良い情報源に育つことだ。情報は作れ。外部で作られたホットな情報は冷ましてから受け入れよ。(印刷された統計資料でも信じがたいものがある。5年も前の情報は今や何の価値もないと思う)
-「情報」に関すること・・・自身がよい情報源に育て-
情報の内在化:

「情報を内在化するということは、その情報を頭の中に保存するということである。
情報を入手した後、その情報をどのように活用するか。多くの人が情報を保存するために活字や表にして手元に置くが、これを情報の外在化と呼ぶ。情報を内在化するということは、その情報を頭の中に保存するということである。主要な統計数字などは暗記せよということである。例えば国家予算やGDP、人口や失業率などは、暗記しておくべきものである。いちいちメモを見なければ分らないということはコンサルタントとしては恥ずべきである。例は悪いが、日本の海軍兵学校や米国の士官学校などでは、その日の食事のメニューを新人に暗記させ、上級生から突然の命令でメニューを暗唱させられる。軍隊の場合、上官からの命令をいちいちメモしていては戦場での伝令は務まらない。命令を復唱して暗記することが要求される。ビジネスに携わる人たちもこのやり方にならうべきである。メモはとっさの場合役に立たない。(これは実際に所長から人前で質問され、突然のことで答えに窮した経験がある)
-情報の内在化、その必要と方法についての指導-
人を動かせ
「他人に影響を与え、他人を動かす人になれ。自己の保有する能力をフルに使って他人に影響を与え、他人を動かせる人材になれ。それができなければコンサルタントを名乗るな。」
他人から影響されるのではなく、他人に影響を与え、他人を動かす人になれ。自分自身がいかに物知り、いかに優秀であろうとも、そしてどんな努力家であろうとも、自己の保有する能力をフルに使って他人に影響を与え、他人を動かせる人材になれ。それができなければ経営コンサルタントを名乗るな。そのために最低必要な条件は他人から信用されることである。これはリーダーシップの初歩である。後ろを振り向いたら誰も付いてこなかった、などということがないように。(リーダーシップ論の初歩だが、全人格的な対応はなかなかできるものではない。しかし、これがなかったら企業は動かないと思う)
-影響を与える人になれ-
調べよ:
「調べても分らない場合は自分で答えをつくり出せ。」
自分自身でいくら調べても分らなかったら、自分で答えをつくり出せ。他人のせいにするな。聞いていなかったなどという言葉は男が言う言葉ではない。ただそれだけだ。(言い訳は男の恥ということは、私も父から厳格に言われていたので抵抗なく受け入れられた)
-分らないことを放置するな-
教材はどこにでもある:
「週刊誌の広告は毎週替わるが、不特定多数の人に対して、その週刊誌を買ってみようという気を起こさせるのは、コトバと文字の取り扱いのプロだからできるのだ。」
学ぶ材料はどこにでもある。われわれのようなコトバや文字を使って人の心を捉える仕事をしている者にとって、毎日の通勤の電車内にも教材はある。それは車内の中吊り広告だ。決まった大きさの紙の中に、遠くからでも読めるような大きさの活字と写真と絵で伝えたいことを簡略に表現する。この技術は非常に難しい。特に週刊誌の広告は毎週替わる。不特定多数の人にその週刊誌を買ってみようという気持ちを起こさせるのは、コトバと文字の取り扱いのプロだからできることである。(電車の中で中吊り広告を見て)
-TPO(時と場所と状況)など目的に合ったコトバの使い方を学び取るように-
類機器は最高の性能の
ものを使え:
「OA機器を買う場合、予算の許す範囲内で最高のものを選べ。購入する時に、どういう性能を比較すべきかという購入時の評価基準を使用目的に沿ってしっかり定めること。」
とくに電話・FAX・コピー機・パソコン・印刷機・カメラ・録音機・音響機器・投影機・マイクなどのOA機器は、いろいろな性能のものがあるが、購入する場合は予算の許す範囲内で最高のものを選べ。これらを購入する時に、どういう性能を比較すべきかという購入時の評価基準をしっかり定めること。カメラの場合は何々、レコーダーの場合は何々というように機種によって評価の性能基準が異なる。常に新型を見て、どの性能が上がったかを比較検討すること。秋葉原のような電気街で常時チェックすることが大切だ。買った以上は部下任せではなく必ず自分で使いこなせ。(所長が秋葉原へよく行く理由を聞いたときのもの。太平洋戦争開戦時に、当日が日曜日だったためタイピストが出勤しておらず、宣戦布告の書類を不慣れな男子職員が作ったために、米国への宣戦布告文書の提出が遅れ、だまし討ちとの汚名を着せられたことが所長は悔しかったようだ。当時の大使館員は、タイピストいう職業は女性のやることで、男子の仕事ではないという偏見と思い込みがあったようだ。それが、OA機器は買った以上は部下任せではなく、必ず自分で使いこなせという言葉になったようだ)
-使用する機材は可能な限り最高のものを使え・必ず自分で使いこなせ-
話法・身だしなみ
について:
「残るは自身の話法だけである。」
会合などで発言者の話を聞いていない人がいるが、そのような人を非難する前に、話し手は自分の話の内容と話す手順と話法について反省すべきだ。講談師や落語家はたった一人で数百人の聴衆を引き付けるが、これは話す内容と話す手順がおおよそ決まっていて、残るは落語家自身の話法、これによって真打と前座の違いが出るのである。現研の場合も、現研ソフトによって話す内容と話す手順がおおよそ決まっている。社員研修などで研修生を引き付けるには自身の話法に磨きをかけるように。
例えば、映画解説者の淀川長治さんの話法は、これから放映する映画を見たいという気にさせるような前振りと、放映が終わってからの解説の良さに加えて話法が不思議と人を引き付けるからだ。加えて、彼はどんな駄作の映画でも、必ず一つは良いところを探し出して紹介する。最後のサヨナラ、サヨナラ、サヨナラも良い。淀川さんの真似は誰にもできないが、自分の個性に合った話し方を考えるように。そして、相手の良いところを一つは見つけるように。アインシュタインなら乱れた服装で話しても敬意をもって受け入れてくれるが、一般人は身だしなみ・口のきき方・食事の作法・目線などによって第一印象が決まる。特に身だしなみは大切だ。(姿勢、身だしなみ、目配りなどについて厳しい指摘を頂いた)
-話の仕方-
場によって異なる
評価基準:
「ある事象に対する評価基準が“普遍的な善”か“特殊な作られた善”なのかを注意深く見るように。」
何かを評価する時、それが絶対評価であろうとも相対評価であろうとも、評価の基準というものがある。基準は人によって作られるものだ。だから、ある人がある意図をもって自分の都合が良い結果になるように巧妙に評価基準を定めるということが起こり得る。そして、自分の作ったその評価基準に合わないものを「悪」と定めて、事前に大キャンペーンを行って人々を「悪」排除に誘導する。過去に多くの独裁者が行ってきた。従ってある事象に対する評価基準が「普遍的な善」か「特殊な作られた善」かを注意深く見るように。歴史上の出来事を現在の評価基準で裁くのは意味がない。評価基準は時代によって異なるのだ。(確かに、現代の評価基準で見ればアレキサンダー大王もジンギスカンもナポレオンも戦争犯罪人となる。基準・水準・標準の違いは何かなど、永遠のテーマだ)
-「評価」についての教え-
