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明治維新から150年、東京五輪まで2年

現研主任講師 泉川獅道

日本の音楽は大怪我を負っている

「日本の音楽は明治以降、大怪我を負ったままです」

2014年6月15日、スッキリとしない梅雨空の下、私は六本木の国際文化会館にいた。東芝国際交流財団設立25周年記念行事「21世紀における日本音楽—未来への提言—」と銘打たれた音楽サミットに参加するためである。日本人を中心として、大学教授、音楽研究者、邦楽演奏家、文化財団職員、メディア関係者など、さまざまな立場の音楽関係者によって埋められた会場に最初に登壇したのは、米国コロンビア大学名誉教授・中世日本研究所所長、バーバラ・ルーシュ氏であった。冒頭の一文は彼女が主催者挨拶として強く言い放った言葉である。

バーバラ・ルーシュ教授は次々に日本音楽の現状について言い放った。

「日本音楽にはリハビリが必要です」
「日本音楽は世界の宝なのです、これは日本だけの問題ではありません」
「未来へ向けて、問題を一つ一つ克服・解決してゆかなければなりません」

おそらく、この時点で彼女の言わんとしていることにスッキリと合点がいく人の方が少ないだろう。いまの私たちにとってはそれが当たり前である。

・日本の音楽とはどんな音楽を指しているのか?
・大怪我とはなにか?
・日本音楽の未来への課題とはなんなのか?

おそらく、これらの問いにハッキリと即答できる日本人はほとんどいないはずだ。

そこで「日本の音楽」を「日本の伝統音楽」と言い換えてみると、おぼろげに彼女の発言の輪郭が浮かび上がってくる。日本の伝統音楽。現代日本人にとって、その印象は「渋い」、「暗い」、「退屈」、「魅力はなんとなくわかるが、興味があるかといわれれば特にない」といったものがマジョリティとなる。時に「和風」という便利で多義的な言葉で片付けられることもある。しかしながら、「私たちに必要のないものか」と問うと、「必要だ」という答えが返ってくるから何とも不可思議な文化である。

日本の近代化・西洋化による文化の混乱

さて、この不可思議さが明治期の日本の近代化・西洋化に起因することは、少し考えれば想像がつく。今から150年ほど前、日本は「黒船来航」によって西洋列強に開国を迫られ、明治維新によって幕藩体制が崩壊し、明治新政府による新体制が敷かれた。その中で、日本の文化・芸術界も、西洋に追いつけ追い越せと急激な近代化の波にさらされた。「鹿鳴館時代」に代表されるような、西洋列強と肩を並べるための様々な文化の西洋化政策は誰もが知るところである。ただ、今の私たちはそれらがすぐに受け入れられ、西洋化はトントン拍子に進んでいったように思っている節があるが、文化の西洋化は決して順風満帆に進んでいったわけではない。当然ながら各界では奨励賞賛と同時に、猛烈な抵抗、摩擦が起き、関係者の腐心は相当なものであったに違いない。

アーネスト・フェノロサと岡倉天心、日本画の確立

美術・絵画の世界ではお雇い外国人のアーネスト・フェノロサ(1853-1908)、岡倉天心(1863-1913)らの働きがよく知られており、彼らの献身的な日本美術の保護・啓蒙活動は、日本・東洋の美術史研究、伝統美術の復興、文化財保護運動、美術教育の確立といった重要な成果に結びついた。明治新政府が引き起こした廃仏毀釈運動の影響で、寺社仏閣を中心に重要美術品が危機にさらされ、奈良興福寺の国宝五重塔が二十五円で売り出され、薪にされかけていた時代である。
岡倉天心がその創設に大きく貢献した東京美術学校(明治20年創立、現在の東京藝術大学美術学部)、日本美術院からは横山大観や下村観山、菱田春草といった「日本画家」が世界に羽ばたいた。最後の狩野派となった狩野芳崖や橋本雅邦、フェノロサ、岡倉天心らの出会いは、西洋化の嵐が吹き荒れる中、「洋画」の対概念として、伝統的絵画の継承と近代的絵画への脱皮を兼ね備えた「日本画」という新しい世界を生み出したのである。
新渡戸稲造の「武士道」と同じく、英語で出版された天心の「茶の本」(明治39年出版)では、その名の通り、日本の茶道文化を軸に、欧米の物質主義的文化に対して、比較文化論的に東洋の精神文化や芸術の価値・魅力を力説している。茶の本「The Book of Tea」は日本文化の啓蒙書・名著としての地位を確立し、今でも世界で読み継がれているのである。

伊澤修二と音楽教育、日本音楽のドレミ化

同じように、音楽の世界でも西洋化政策は大きな混乱を生み、複雑な経緯を辿ることとなった。その中心的人物は東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の創設に尽力し、日本における音楽教育の功労者としての評価が高い伊澤修二(1851-1917)である。伊澤も天心と同じく明治期のいわばエリート官僚で、優れた教育研究者であり、本場アメリカに渡り、ピアノの入門書「バイエル」を日本に持ち込んだことで知られるルーサー・メーソンに師事して西洋の音楽教育を学んだ。
現代の日本における伊澤の評価は大きく二分する。表面は「日本における西洋音楽導入の功労者」であり、その裏面は「日本の伝統音楽衰退の責任者」である。「私たちが学校で受けた音楽の授業」を思い出してみてほしい。音楽室の壁にはバッハやベートーヴェン、モーツァルトといった西洋クラシック音楽の巨人たちの肖像画が並び、そこに日本の伝統音楽の専門家はいないはずだ。日本は世界的に見ても「西洋クラシック音楽が最も発展している国」の一つであるといって過言ではない。
ただし、その伊澤も西洋音楽をただ日本に輸入して模倣させようとしたわけではない。明治12年に日本の音楽の方向性を探るべく創設された「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」の三大事業には、
一、東西二洋の音楽を折衷して新曲を作る事
二、将来国楽を興すべき人物を養成する事
三、諸学校に音楽を実施する事
が掲げられており、従来の日本音楽に西洋音楽のよいところを取り入れた和洋融合の「国楽」が、それぞれの現場で模索されたことがわかる。また当時の庶民の音楽の代表格である三味線音楽の特徴で、恥ずべき文化として問題視された「教育上よろしくない歌詞」を書き換える、いわゆる「俗楽改良」も、日本の伝統音楽を保護するための重要な仕事であった。
しかし、それらの努力があったにせよ、明治23年に初の国立音楽教育機関として創立された東京音楽学校においては、西洋音楽の輸入・教育が主題となり、軍隊の音楽(軍楽・吹奏楽)、富裕層・知識階級のたしなみ(クラシック音楽)、子どもたちの唱歌(学校教育)などの場面から、次第に西洋音楽は国民に浸透していった。150年かけて日本音楽のドレミ化と伝統音楽の衰退は進んでいったのである。

価値観のモノサシは動的なもの

さて、これらの明治初期の文化動向を今一度ハッキリとさせるならば、日本は(日本政府は)国難を乗り越え西洋列強に対峙するために「日本の近代化」が必要だと考え、その過程で「西洋文化を輸入・模倣し、肩を並べ、日本が文明国であることを認めさせる」方法を選び、そこに「文化の西洋化が戦略として利用された」と考えるべきであろう。
音楽の世界では、その過程で音楽の「ドレミ化」が政府主導の下に進められた。その結果、いま私たち日本人は豊かで多様なドレミの音楽を楽しんでいる。同時にドレミ以前の日本の音楽の価値は「よくわからなく」なっている。
言わば「150年前の日本人がもっていた文化のモノサシは、150年かけて異なった価値観のモノサシに入れ替わっていった」のである。
文化というものはいつの時代も動的なものであり、本質的に「保守と革新」を内包するものであるが、数代前の先祖が当たり前に楽しんでいた音楽を、今の自分が心から楽しめないことは、私には残念でならない。

明治維新150年、東京五輪まで2年

伝統楽器・尺八の演奏家として、また幼少より西洋音楽を学んできた作曲家として、また大学に籍を置く一音楽研究者として、そして一児の父である日本人として、6月の「東京サミット」に居合わせた私は、複雑な気持ちでルーシュ氏の話を聞いていた。
「日本の音楽は大怪我を負ったまま」という言葉に胸の痛みを感じ、幕末の黒船来航の光景を思い浮かべていたのは私だけだったのだろうか。また同時に、外国人(特にアメリカ人)としての自分を意識しながら、日本の首都・東京で、大勢の日本人音楽専門家を前に、毅然と日本人の伝統軽視の姿勢を批判し、日本伝統音楽の救護を訴えかける、ルーシュ氏の覚悟と度量、強い気持ちに、深い敬意と未来への希望を抱かずにはいられなかった。

私は「日本画の世界的成功と日本伝統音楽の衰退」を安直に比較して、誰かを批判したい訳ではない。かといって、一和楽器奏者として日々感じる無念さ、やるせなさを隠すつもりもない。ついては、最後に私なりの今後の日本音楽の展望を述べたい。

私は音楽取調掛がやり残した「日本における西洋音楽と日本音楽の豊かな両立」は、まだ間に合うと思っている。
残念ながら、現時点では日本人の総意としての「日本文化」の中にルーシュ氏の語る日本音楽は組み込まれていないだろう。伝統楽器である三味線、尺八、和太鼓やその演奏が、多くの日本人を魅了し、心を揺さぶり始めていることは間違いないが、私たちは総じてそれを「ドレミ」の解釈で受け止めている段階である。
平成10年の文科省指導要領の改訂によって、日本の義務教育において「初めて」和楽器が正式に盛り込まれた。明治12年に伊澤修二が構想した音楽取調掛から約120年の歳月が流れ、その間に、日本の伝統音楽がすっかり教育の視野の外に置かれてしまったことが、ようやく問題として認められたのだ。
現在、教育現場では「西洋音楽畑で育った音楽教師」が、自分たちが学んでこなかった和楽器の魅力を子どもたちに伝えようと日々奮闘している。まだ始まったばかりである。教育現場からの日本音楽の再興にはまだ時間がかかるだろう。しかしながら、先生と子どもたちの間に再び育ち始めた「文化の根っこ」は、必ずや豊かな未来の音楽へと結びつくに違いない。

一方で、地方に残された日本音楽の再興には新しい可能性が生まれている。学校教育から置き去りにされてきた日本音楽であっても、今なお風土の中で土着し、豊かに生き延びているものがたくさんある。盆踊り、獅子舞、薪能、御神楽、浄瑠璃、エイサー、そして虚無僧尺八、伝統の響きを今に伝える地域芸能は枚挙に暇がない。
今、日本中のスマホカメラが地方に分け入り、そういった日本音楽の姿を捉えて拡散させていく現象が広がっている。特に昨今、日本を訪れる外国人が増え続けているが、彼らはそれを新しい文化との出会いととらえて、ありのままに発信し、それが世界中に拡散していくのである。
岡倉天心に日本文化の独自性を覚醒させたフェノロサの役割を、無名の人たちの無数のスマホカメラが果たす可能性がある。少なくとも、今の私たちの耳には聴こえにくくなった「日本音楽のありのままの素晴らしさ」を掘り起こすきっかけをつくってくれるだろう。そのきっかけを私たちがうまく生かすことができれば、草の根からの日本音楽の再興の流れが生まれ得る。
私はそう期待している。
学校教育から忘れられても生き続けた日本音楽のもつ本来的な強さと価値を、私は信じている。

明治維新から150年。
平成終幕へのカウントダウンが始まった。
そして、東京オリンピックまであと2年。
私たちが世界に発信できる文化は私たちが意識している以上に豊かである。

◆泉川獅道(いずかわしどう)
㈱現代経営技術研究所主任講師。フィールドワーク、モノづくり、ソフトコンテンツづくりを組み入れた独自の研修プログラム開発に定評。尺八奏者、作曲家、サウンドプロデューサーとしても活躍。大阪芸術大学非常勤講師。

AI<情緒

現研主任研究員 荒井幸之助

この時期、ご近所のお庭を見に行くのが毎年恒例の楽しみになっています。お目当てはそこに咲く何十種類もの色とりどりのバラです。花の香りがあたり一面に漂い、その場にいるだけでも、何とも幸せな気持ちに包まれます。

バラと人の関わりは非常に古く、メソポタミア文明の「ギルガメシュ叙事詩」にバラという文字があるそうです。この物語は粘土板に彫りつけられており、主に紀元前2000年~1200年頃のものだと言われています。その後3000年を経て、アジア系との交配により一年に季節を問わず何度も花を付ける四季咲き系が生まれ、大輪咲き、多色化と進みました。今では登録されているものだけでも4万種類を超える品種が生まれています。

バラは海外の花でもありますが、日本にも自生していて、万葉集にも詠われています。その代表が、のいばら(野茨)です。のばらとも言いますが、このばらは小さく可憐な白い花を付けます。お庭だけでなく、山野や道端でも見ることがある、日本人には実になじみ深い花ではないでしょうか。

ちなみに、りんごや梨、苺はバラ科の植物です。一見つながりがあるようには思えませんが、その花を見ると、いずれもとてもよく似た白い花をつけるので納得します。また、のいばらは原種のため病気や環境の変化に強く、比較的弱い園芸種のばらを増やす際の接ぎ木の土台として使われます。根っこを含む下の部分はのいばらで、その上に園芸種のバラを接ぐわけです。

のいばらは秋には赤い小さな実をたくさん付けます。ローズヒップ(ばらの実)ティーとして飲用されるため、姿は知らなくてもご存知の方がいらっしゃるかもしれません。酸味のあるさわやかな風味が特徴で美容効果もあるそうです。秋の野原を春とは違った色で彩ります。四季の変化が豊かな日本には、こうした植物を楽しめる場所がたくさんあります。

東京で仕事をしていると、忙しさにかまけて、身近にある自然を気にかけないことが多いと思います。空き時間があれば、まずはスマホに目が行きますし、自分の周りをじっくり見ること自体が減っているのかもしれません。でも少し気にしてみると、身の回りにはたくさんの緑や花々が私たちを包んでいます。

先日、仕事先で待ち合わせをした駅で、ふいに、のいばらの花に心が奪われました。欅の木の葉が揺れる、その木漏れ日の中に、風にそよぐ白い花。ぼーっと眺めながら、岡潔さんの随筆集「風蘭(ふうらん)」のことを思い出しました。

後で読み返してみると、そこにはこう書かれていました。「たとえば、すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それはじっさいにあるとみるのは実在感として見る見方です。これらに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。これが情緒と見る見方です。情緒と見たばあいすみれの花はいいなあと思います。芭蕉もほめています。漱石もほめています。」

彼は教育者であり、世界的な数学者です。数学とは情緒の表現である、と語りました。そして日本人にとっての情緒の大切さを様々な形で説き、日本人のすばらしさは情緒にあると言っています。

すみれの花をいいなあ、と見ることが大切であり、それが日本人なのだそうです。「風蘭」の文章を読んだ時、私は日本人の最も大切な根っこのようなものが情緒であり、理性や知性に対しての上位概念である、そう解釈しました。しかし、情緒が何なのか、私にはいまだに分かりません。何となく、日本人って、日本って良いなあ~と思う瞬間かな、くらいに考えています。日本人が持つ、野中郁次郎さんのいう暗黙知のようなものなのかもしれません。

ところで、今年の5月23日、米グーグルが開発した人工知能(AI)「アルファ碁」と、世界最強といわれる中国の柯潔(カ・ケツ)九段が囲碁で対決し、アルファ碁が完勝して話題になりました。柯九段は対戦後にこうコメントしています。「完敗だった。アルファ碁の弱みを見つけられなかった。人間との差を一個人で補うことはできないようになる。」

いわゆる「シンギュラリティ(技術的特異点)」が2045年には訪れると言われています。シンギュラリティとは、米国の数学者でありSF作家でもあるヴァーナー・ヴィンジ氏が提唱している思想で、AIのように高度な機械が、今後加速度的に進化することにより、機械がいずれ人間を上回り、知能ばかりか、意識までも持つようになるという予想です。

アルファ碁との対戦結果を見ると、その日が本当に訪れるのではないかと思わざるを得ません。そのAIの進化を支えるのが2006年に考案された「ディープ・ラーニング(Deep Learning)」という手法です。これは人間の大脳活動のメカニズムをコンピュータ上で再現し、より低レベルの情報から高レベルの情報を段階的に導き出す機械学習の新方式として広く知られるようになりました。

既にAIによって人々の将来の職業が大きく変化することが予想されていますが、その時、経営は、人の働き方は、どういう形になっているのでしょうか。また、それに対して、これからの企業はどう対応していけばよいのでしょうか。

ここで私は先ほどの岡さんの言葉を思い出します。AIというデジタルの世界と情緒、日本人にとって情緒が大切であるということ。バラに幸せを感じ、すみれの花をいいなあと見る。それが我々にとって、経営を考える上でもシンギュラリティ後の世界を生き抜く、AIと共存するためのヒントになるのではないでしょうか。

1つの改善でもあれば、物事は劇的に変わるのに……

現研上級主任研究員 大島和義

ベルギーのブリュッセルからブルージュという街まで鉄道で行こうとしていた時のことです。切符を買ってホームに上って列車がくるのを待っていました。
閑散としたホームに50代半ばかという女性がいて、その隣にはたぶんその方の娘さん、ベビーカーには2歳ぐらいの女の子がのっています。

私の方から話しかけてみました。しかし、私の言葉は通じませんでした。娘さんも残念ながら通じません。でも、お二人ともにこやかに接してくれています。
それで、赤ちゃんとその女性をむすびつけるようなしぐさで「グランマ?」と言ってみました。そうしたら、「ハイ」というように、とても嬉しそうなお顔をしてうなずいてくれました。

目の前に路線図の掲示がありましたので、それを指でさして「ブルージュまで行くつもりだ」ということを伝えると、彼女は、「自分たちは、その1つ先の終点まで」というように指先で教えてくれます。本当に、こんな些細なやりとりが私にとっては海外でのだいご味になっています。

そんなやりとりをしていると、ホームの電光掲示板に「7分の遅れ」という知らせが映し出されます。すると、女性は、西洋の人達がよくやるように手を広げて「しょうがないわね」という仕草をします。
少しすると、「12分の遅れ」という表示が出ます。さらに、しばらくすると「20分の遅れ」という表示です。しかし、20分しても列車は来ません。

気がつくと、わたしたちの周りには大量の人が集まってきています。やがて、ホームからはみ出しそうになってきました。これは大変だ。これではとても乗れないのではないかと心配になってきました。もう、ホームは人ではちきれんばかりです。

私は、思い切って、「今日はやめて、明日の朝にしよう」と決めました。それで、ご婦人と娘さんに、「私は行くのをやめますので……」ということを目としぐさで伝えたのです。

すると、そのご婦人は、なんと、私の腕をグイとつかんで「大丈夫ですから、一緒にのりましょう」と真顔で伝えてくるのです。娘さんもそんな表情です。それから彼女は私の腕をつかんだまま、ホームの前方と後方の両方が見通せるところにまで連れていって、「良く、見て!」というように指さすのです。見ると、そこはガラガラ。

人々が集まっているのは、ホームの真ん中付近だけなのです。いったい、どういうことなのか、一瞬、わかりませんでした。しかし、改めて周りをよく見てみると・・、わかりました。ホームに停止位置の表示が全くないのです。日本なら足元に「〇号車」という印がどこのホームにもあります。

列車が来ても、どこに止まるかわからないのです。下手をすれば、ホームの両端の方に行って待っていたら、乗れなくなってしまいます。だから、とにかく真ん中なら間違いない、と。それで、私たちのいたところがちょうど真ん中辺りだったので、そこにあふれるようにみんなが集まってきていたのです。
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ようやく列車が入ってきました。どのあたりに扉が来るか、みんな真剣に見ています。すると、今にも停止するかどうかというタイミングで私の隣のご婦人がダッと走り出して、一番先に乗り込んだのです。人をかき分けて、とにかく真っ先に。もう、たまげました。

他の人たちも「我先に」という状況の中、やがて、娘さんと赤ちゃんと私が乗り込んでいくと、もう、しっかりと席は確保してくれてあります。
いや、すごい。私の見た「その光景」もすごいけれども、「ご婦人のバイタリティー」も、すごい!

さて、次にどういうことが起こったか・・・。

私たちが乗り込んだ後、延々と、人が乗り込んでくるのです。ぞろぞろ、ぞろぞろ、真ん中の通路を列車の両端に向かって歩いていきます。おそらく、自分の座る席が見つかるところまで、とにかく、歩いていくのでしょう。逆方向に行こうとする人はいませんから混乱はありません。

そうやって、ようやく、列車は動き出したのです。

◆まとめ

列車が遅れる原因が、また、人々がマナーを捨てて行動する原因が、いったい、どこにあるか・・。

みんなで積み上げてきた改善という努力と、そうやって作り上げてきたシステムというものの成果とで、日本の社会全体がとてつもない価値をもっているということを目の前で見せられた光景でした。

一方、そんな日本の社会も、そして、私たちの企業にあっても、このところ、そこここに、大きなほころびが目立つようになってきているのも事実です。

出現する現代の新しい状況への対応を急ぐ必要があります。1つの改善でも、その努力を積み上げていかなくてはならないと思う次第です。
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“Unlimited” ビジネスモデルの勝者とは

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現研主任研究員 篠崎太郎

◆アメリカ発ビジネスモデル-月額90ドルでコーヒー飲み放題 CUPS

制限時間内に特定の飲食メニューが「食べ放題」、「飲み放題」となる「〜放題」サービス。私はこの「〜放題」というフレーズが大好きで、飲食店を中心によく利用している。このサービス、英語だと「Unlimited」と表現するようだ。このような「Unlimitedメニュー」を 「月額定額」で提供するウェブ・サービスがある。

アメリカのCUPSは、提携している300店舗以上の独立系カフェにおいて、月90ドルでコーヒーが飲み放題になるサービスを提供している。(※一部対象外あり。全メニューが飲み放題となる月額120ドルコースもある。)1度利用すると、30分間は間隔をあけないと次の利用が出来ないルールはあるが、1日あたり約3ドルでコーヒーが飲み放題になるというのは、コーヒー好きには非常に魅力的なサービスではないだろうか。現時点で日本ではこのようなサービスはない(単店舗での取り組みはあり)ようだが、1日に4〜5杯はコーヒーを飲む私にとってはぜひ利用したいサービスである。

◆ユーザー、カフェ、CUPS-それぞれの立場から考えると

このビジネスモデルについて、「ユーザー」、「カフェ」、そして「CUPS」それぞれの立場から考えてみたい。

「ユーザー」がCUPSを通じてそれぞれのカフェにおいて注文する「店頭通常価格✕利用数量」の合計が1ヶ月で90ドルを超えていれば、ユーザーにとってはCUPSを利用する価値がある。またCUPSを通じてお気に入りのカフェを新たに見つけることができるかもしれない。一方で90ドルを下回るようであれば、CUPSを利用せずに個別に各カフェを利用するほうが、料金としてはお得だ。

「カフェ」はCUPSを通じてユーザーにコーヒーを提供する際、通常店頭価格に対して決められた歩率をシステム利用料としてCUPS側に支払う契約となっているようだ。たとえば50%で契約しているとすると、CUPSを利用するユーザーに対して、常に通常料金の半額でコーヒーを提供することになってしまう。一方でCUPSの集客力により客数が増え、またコーヒー以外にもフードメニューなどの注文がされれば売上増にも貢献してくれる。CUPSを通じてユーザーが自店を気に入ってくれれば、店独自の顧客となる可能性もある。自店を利用するユーザーデータをCUPSを通じて取得できるというメリットもある。

「CUPS」はユーザーから課金を行い、システム利用料を差し引いた額を各カフェに支払う。ユーザーの利用量が少なかったり、CUPSにとって有利な条件でカフェ側と契約が出来れば、CUPSの収益は上がる。一方で、このシステム利用料、すなわち「通常店頭価格に対する歩率✕利用数量」が、ユーザーがCUPSに対して支払う利用料金の合計を越えてしまった場合、CUPSは赤字となってしまう。

このビジネスモデルの勝者は誰か。ユーザーは月額料金を超えた量を利用すれば、その分得をする。カフェの売上もユーザーの利用量に比例して上がるが、利益率は下がる。ユーザー数が増えればCUPSの売上も上昇するが、利用量が多すぎると赤字となるリスクがある。長く利用されるサービスとなるためには、「ユーザー」、「カフェ」、「CUPS」の3者共にメリットのあるビジネスモデルであることが必要だ。

◆「通い放題」メニューには暗雲

アメリカの事例をもう1つ。ClassPassという、フィットネスクラブやヨガ教室などをユーザーとマッチングするウェブ・サービスがある。CUPSのビジネスモデルのように、月額固定料金(例:ニューヨーク 200ドル/月)で各エリア(州)内の提携スタジオに通い放題となるサービスを提供していたが、昨年11月に「通い放題」のメニューを中止し、「月額固定料金で、決められた回数を利用可能」という方式に料金体系を変更した。
「ユーザー」の利用回数が想定よりも多すぎたのか、またはClassPassと各フィットネスクラブとの契約内容に無理があったのかはわからないが、“通い放題”では「ユーザー」、「フィットネスクラブ」、「ClassPass」の3者全員が共にメリットのある、バランスのとれたビジネスモデルを実現することは出来なかったのではないだろうか。
日本においても、ClassPassのように「月額9800円で、全国2500のフィットネススタジオに通い放題」というサービスが話題となり注目していたが、残念ながら開始から2年で終了となるようだ。

◆登場人物全員が勝者になって欲しい

ビジネスモデル設計を行う際には、登場人物全員にメリットのある、バランスのとれたビジネスモデルを構築する重要性を強く感じた事例である。

「食べ放題」、「飲み放題」といった「Unlimited」サービスはとても魅力的だが、私たちの胃袋は残念ながら「limited」、限界がある。日頃の暴飲暴食の影響か、昨年末に自己最高体重を更新してしまい体重計の上で青ざめたが、それでもまた足を運んでしまう魅力が「Unlimited」にあるのは(個人的には)間違いない。そのような人を惹きつけ、なおかつビジネスモデルとして成立する「Unlimited」サービス創造に私はぜひ貢献したいのである。

イノベーションの風土づくりへ

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現研所長 大槻裕志

◆アイディアの玉石混交を歓迎する

単発的なイノベーションではなく、イノベーションを生み出し続ける風土をどうつくるか?現在の多くの社が願い、取り組んでいるテーマである。

私はイノベーションを生み出し続ける風土をつくるためには「アイディアの玉石混交を歓迎する」職場風土の大切さを強調したい。そしてこのような説明を添えたいと思う。

  • たくさんの石があって玉が見つかる
  • 石をヒントに玉が生まれる
  • 石を組み合わせて玉が生まれる
  • 議論が進み、石だと思っていたものが玉だったと気づく

アイディアを発想した時点で、その良否を、言い換えれば、石か玉かを評価しようとする職場の空気は、自由にアイディアを発想しようとする気持ちに蓋をすることになる。
石は、玉を生む礎になったり、玉に化けたりすると大らかに考えて、評価を気にせず、どんどんアイディアと議論が生まれる風土こそがイノベーションを生む。それが多くの会社を見てきた私の率直な実感である。

◆第一歩の敷居を低くせよ

イノベーションの呼称に込められた共通の意味合いは「根本から変える」「新しいものを生み出す」「現状を打破する」などであろう。
はたして、全員が担当している個々の業務で「根本的に変える」「新しいものを生み出す」「現状を打破する」ことなど可能であろうか?そういわれた時に、社員たちは、どう行動すればよいのか、イメージが湧くであろうか?
イノベーションを標榜し、社員に「変われ」と呼びかける時、会社がかわろうとするビジョンの姿を、そのまま個々の社員の担当業務にあてはめて「大きく変えよ」「新しいものを生み出せ」「現状を打破せよ」とやると、社員から見ると第一歩を踏み出そうにも敷居が高すぎる。

組 織や指導者が、社員が変革をイメージできる枠組みをつくり上げる。その枠組みをイメージしながら一人ひとりの社員が自分の担当業務で、一生懸命に改善、工 夫に取り組む。そしてみんながどんどん改善と工夫を積み上げいくことを勇気づける。全員がどんどん改善を積み上げる中から、時に、画期的なアイディアや革 新的なアプローチが現れ、それが随所、随所にちりばめられるようになる。

◆「改善」が「革新」を活かす

ノベーションとして語られるものも、要素分解して、もとをたどれば社員一人ひとりの小さな知恵や改善である。その小さな知恵や改善がスピード感もってどんどん積み上がっていくと、弾みがうまれ、その集積度が閾値を超えるとイノベーションが起こる。
下図の「イノベーションの枠組み」を見てほしい。これは論理図であるよりはイメージ図である。ここではあえて、
改善:小さな変化を起こす工夫・アイディアとその取り組み
革新:大きな変化を起こす発想転換・画期的なアイディアとその取組み
と定義する。

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イメージ1でも、イメージ2でも革新の数は全部で4つである。
だが直観的にあなたはどう感じるだろうか?イメージ1の方は、イノベーションが本当に起こりそうだが、イメージ2には大きな期待を抱けないような気がしないだろうか。

直観だけでなく、現実の組織観察の結果としても、イメージ1の優位性が遥かに高い。
いろんな「改善」アイディアが湧きあがり、一人ひとりが小さくても自ら変える活動に参加している風土の中でこそ、「革新」アイディアは周りからすぐに認められて活かさる。複数の改善が相互に化学反応を起こして革新へと大化けすることだってある。

革新しか認めない空気の中では、革新は孤立し、活かされないのである。
指導者は社員に方向感をしっかり共有させながら一人ひとりに部下の努力を、たとえ見た目にはささやかな成果であっても、気づき、意図を汲み取り、その努力を認め、さらなる創意工夫を鼓舞して欲しい。
みんなでどんどん改善を積み上げる中で、革新的なアイディアが仲間の誰かから生まれ、それを自分たちの問題として喜び、すぐに活かそうとするダイナミズムの中でこそイノベーションが生まれ続けるのである。

事業戦略を牽引する人材構想の条件

現研所長 大槻裕志

人口減少社会の必然―海外投資からの収益で生きていく国へ

日本は人口減少社会に突入している。世界のエリア別にみると(下図参照)、2010年以降、人口減少が予定されている地域は、ヨーロッパと日本である。ヨーロッパは日本より先に人口減少社会に突入している。2045-2050年を見ると日本の人口減少率はヨーロッパを超え、世界でも際立っている。いずれにせよ、日本、ヨーロッパともに成熟社会を迎えてそれが深まっていく過程にあると言っていい。

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一方で、米国は違う。確かに先進国であり、成熟社会としての顔も持つが、現在3億人強の人口が、2050年には4億人に達していると予測されている。米国は、成熟社会の顔をもつ国家であると同時に移民社会の活力を維持した新興国でもあるのだ。
好むと好まざると日本は海外投資からの収益で生きていかざるを得ない国である。労働人口が減少していく中で、また、社会全体が高齢化していく中、国内で必要な生産をすべて賄い、さらに供給余力を海外に輸出して稼ぐというモデルは長期には成り立ちにくい。

所得収支が経常収支を支える時代

国際収支の推移(下図参照:単位は億円)を見ても、すでにその傾向が強まっていることが分かる。1985年の日本の経常収支の黒字は、圧倒的に貿易・サービス収支に依拠していた。ところが2005年を見ると、所得収支の黒字が貿易・サービス収支の黒字を超えている。2010年には、その差がさらに拡大している。
*注:所得収支は、海外への証券投資と直接投資からの収益である。
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リーマンショックを挟んだ統計の動きを1年刻みで見てみよう。リーマンショック(2008年9月)の起こった2008年、2009年と貿易・サービス収支の黒字は激減している一方、所得収支の減少幅は相対的には軽微であり、経常収支の黒字を支えている。
このトレンドは止めようがなく、日本企業が投資し、現地法人の経営活動を軌道に乗せ、収益を拡大し、所得収支の黒字を増やしいくことは、日本が海外の成長を国内に取り込めているかどうかの指標となっている。

転換が求められる人材の質と教育の発想

以下の3つは、このような時代を生きる日本産業が追求しなければならない自明のトレンドであり、宿命である。
1. 海外投資からの収益を拡大する
2. 海外投資を呼び込むことによって成長を目指す
3. 事業・製品・サービスの付加価値を高めていく
この3つのトレンドに乗っていくためには日本企業は人材の質と教育の発想を大きく転換させていかなければならない。それは今までの延長線上にある内向きの人材育成の方式では達成できないであろう。そう考える根拠として、現在の日本社会、あるいは現在の日本人の行動原理が、以上の3つとの不整合を起こす局面があることを指摘したい。

論理を使い分けるヨーロッパ

日本は高度の黙契社会である。文書に定められていなくても、法律で決められていなくても成立している社会的な約束事が多く、社会の構成員がその約束を守ることによって社会の秩序が機能している。
米国はその逆である。徹底した契約書社会である。そしてすべて明示的な約束事のもとに動こうとする。そして法で明記されて禁止されていないことは基本的にやってよいと考える。その点は自由なのである。
黙契社会と契約書社会。日米をその両極とするのであれば、ヨーロッパには二つの社会の論理を使い分けるしたたかさがある。
黙契社会では、経営慣行が尊重されて積みあがっていく中から経営システムのローカリティが高くなりがちである。日本固有のローカルシステムに価値を感じて、それを海外でも守ろうとする感覚が強いのが日本企業である。
多くの日本人は「雇用を守る」ということが企業の責務だと思っているし、海外においても相対的に見て、欧米の企業よりも人を解雇することを回避する努力をする。終身雇用、長期雇用保証という日本のローカルシステムを、海外においても守るべきものであるという思想がある。
一方、ドイツやオランダにも、ワークシェアリングというローカルシステムがある。90年代にフォルクスワーゲンが、週28.8時間労働を労使で妥結した。当時、私は現研ヨーロッパ駐在だったが、このニュースを聞いて驚いて、ドイツ労働総同盟を訪ねてその経緯を事細かにインタビューしたものである。
そういう欧州企業が、フォルクスワーゲンであれ、オランダのフィリップスであれ、ワークシェアリングのシステムをアジアで雇用維持のために適用したという事例をついぞ聞いたことはない。逆に大胆なリストラについてはしばしば報道される。欧州の大企業は、欧州で使う論理とアジアで使う論理を明らかに使い分けている。アジアでは徹底した明示的な契約書主義をとる。

日本システム、米国システム―どちらがアジアの若者を惹きつけるか

米国の企業はヨーロッパとは違い、米国式をそのまま海外にも展開していく志向が強い。
雇用に関しては日欧ほど雇用責任を価値観としていないのでアジアでの展開も本国と現地との整合をとるのが楽である。
人事評価―報酬決定システムの基本コンセプトを単純化して日米比較してみよう。

日本―個人の成果は集団に帰属しみんなで分かち合う。その報酬は長期の処遇と集団内部からの「尊敬・感謝」という形で還元される。
米国―個人の成果は個人に帰属し、その報酬は金銭という形で還元される。
この違いは、企業の属する社会の違いでもある。では、これからアジアで展開していこうとする場合、どちらがアジアの人々にとって分かりやすく、さらには意欲的な若者を惹きつけるだろうか。
今までの現実を見る限り、明らかに米国である。
以上の論理を踏まえた上で、日本企業は人事システム、人材活用の制度をつくり上げていく必要がある。

事業開発―完全性の追求の論理が阻害要因に

今の日本企業の課題は、事業を発展させる、新規事業とグローバルビジネスを成功させる、・・・つまり事業開発である。
IT型ビジネスモデルが本格化して以降の事業開発のやり方の世界的な主流はバージョンアップ猛進型である。不完全であってもスピードを重視し、一番で乗り込んでいく。多少のトラブルがあっても、不都合なところはやりながら直して、前へ前と猛進していき、競争相手を振り切る。
このようなバージョンアップ猛進型と対極にあるのが、十分に準備をして完全にしてから進めるという「完全性の追求」の論理である。最近、この論理で取り組む事業開発アプローチは成功しなくなってきている。
これはむしろ、コンプライアンスや品質保証の世界で求められる行動様式である。日本企業は、コンプライアンスや品質保証をさらに厳密に遂行すべき段階に入ってきている。ところが、コンプライアンスや品質保証を企業システムの中に植え付けていく過程で、これらが事業開発の論理にも影響を及ぼしている。コンプライアンスや品質保証の原理でガチガチに思考を縛られた企業風土と人材は、バージョンアップ猛進型の事業開発の舞台で勝負できなくなってきている。

脱線する新幹線と炎上するナノ

分かりやすい例で考えてみよう。中国は新幹線が脱線したら原因究明など一切お構いなしに翌日には同じレールに別の新幹線を走らせた。29万円を実現して世界を驚かせたナノはインドのあっちこっちで炎上事故を起こしている。
安全・安心を重視する日本では絶対できないバージョンアップ猛進型の事業展開を、中国もインドも平気でやっている。それを善とするか、悪とするかを論じることは、日本ではない相手方の社会に出て行って勝負する時にはあまり意味がない。強いか、弱いかが問われる。彼らは強い。スピードが重視される勝負の場合、よほど工夫をしないと我々は勝てないということを意識すべきである。

ここまで、雇用の考え方、評価・報酬システム、そして事業開発の方式を、順次検討してきたが、日本の場合は、国内事業推進の論理と海外事業推進の論理とのギャップがどこの国よりも大きいということを肝に銘じなければならない。

高付加価値をめざし「顧客を選ぶ」という選択

今まであまりにも全方位的に顧客志向の強い商品づくりをやってきた。顧客適応しすぎのきらいもあった。象徴的な例がルネサス・エレクトロニクス。すべての自動車メーカーがルネサス・エレクトロニクスに依存し、東日本大震災に被災すると、日本のサプライチェーンが分断されて大騒ぎになった。それほど重要な戦略部品を一手に引き受けながらそれまで大赤字を出し続けていた。
日本では、なかなかステイタス・ブランドが育ちにくい。ウォークマンはつくれてもココ・シャネルのようなブランドはつくれない。顧客優先でどんどんモデルチェンジしていくからである。米国にもその傾向があり、ムスタングがアメリカ車として、ある一時代に輝きを放ち、ステイタスを獲得しても、それを長期に続けていくことはできなかった。クラッシック・カーとしてずっと乗り継がれていくロールスロイスにはなれなかったのである。
なぜだろう。今までヨーロッパの会社と付き合ってきて思うのは、彼らは「顧客を選ぶ」ということである。これが俺たちのやり方だからついてこなかったら買わなくてもいいよと言い切る。それが付加価値化の一つのポイントになっている。分かる人だけ買ってください…。
ずいぶん傲慢だが、この姿勢の果実はステイタス・ブランドとして相対的な高価格が維持できるということに留まらない。実はコスト効率も高いのである。たとえばメルセデスベンツ。ずっと同じ型の金型を使って、何十年と変わらない部品で車を作り続けるので、つくればつくるほど、投資を回収してさらにキャッシュが積みあがっていく。
日本企業はお客様の要望に応じてどんどん仕様変更を受け入れ、どんどん型を変えていくので、絶えず投資コストがかかる。顧客との関係性を重視し、我々が顧客を選ぶのではなく、顧客から選ばれることに腐心する。
この姿勢は局面によっては見直さなければならない。我々が今後グローバル競争の中で高付加価値をあげていく事業モデルをつくるには、時には「顧客を選ぶ」態度も必要になってくる。

以上、事業戦略を牽引する人材構想の条件として、日本企業に固有な論理や行動姿勢が、実はグローバル展開においては多くの齟齬を生むという面を検討した。このような状況を打破するために人材育成も根本から発想を変えなければならない。
これからの10年を、私たち日本企業が生存を賭して若手リーダーを鍛える10年にしていきましょう。

(出典:2011年12月1日 第47回総合研究会「2012 次の「新成長力」基盤の創造へ」より。講師:大槻裕志)